【人気記事の再掲載】日本航空株式会社(JAL)アメーバ経営コンサルティング

日本航空の今

「過去と決別する」。社長就任時の決意

※本記事は2013年12月5日に配信した記事を再掲しております。掲載されている情報は、発表日現在の情報です。最新の情報と異なる場合がありますのでご了承ください。

2010年1月19日、日本航空、日本航空インターナショナル、JALキャピタルの3社が会社更生法の手続きに入り、その渦中で私は社長に就任しました。
正直言って、どこから手をつければよいのかまったく分かりませんでした。就任会見では記者の方々から「これからどうするのか」とご質問をいただきました。当時、債権放棄の額はまだ決まっていませんでしたが、多くの債権者の皆様にご迷惑をおかけすることは明白で、また44万人の株主の皆様の株式が紙くずになってしまうことも容易に予見できました。
そうした状況で申し上げることができたのは、「過去と決別する」ということでした。過去と決別して、まったく新しい日本航空をつくり上げる―。これが私の社長就任時の決意であり、鮮明な記憶として胸に残っています。

日本航空株式会社
代表取締役会長
大西 賢 氏

稲盛名誉会長(当時会長)からは「なぜ破綻したのか、その原因を真摯に反省しなさい」と告げられました。これが稲盛名誉会長からの初めての指示でした。
私は、日本航空が企業として、あるいは組織として持っていた考え方の何が破綻の要因であったのか考えました。

その1点目は、「公共交通機関としての使命を最優先する」という考え方があまりにも強すぎた企業でした。もちろん公共交通機関としての使命は重要であり、これを捨て去る気は毛頭ありません。しかし、「公共交通機関だから」という思いがあまりにも強すぎたのです。民間企業として何を最優先すべきなのか、日本航空は何によって成り立っているのか、そうした部分が「公共交通機関だから」という考えによって消し飛ばされていたと思います。結果、多くの不採算路線を抱えてしまっていました。

2点目に永続的な経済成長を前提とした経営であったことが挙げられます。もはや右肩上がりの時代ではないのですが、私たちには右肩上がりを前提とした拡大主義が根強くはびこっていました。事業規模を縮小していくことは考えず、イベントリスクからも目を背ける。年金債務の問題でも、運用利回り5%台の年金制度が成り立ち続けると信じて疑わない怖さ。これを今、痛感しています。

3点目は限定的な競争環境からくる世間の常識から乖離した発想です。国内の大手航空会社はJAL、ANAの2社。結果、「ANAさんはどうしているのか」という比較の中でしか物事を考えないので、発想が広がらない。「JALとANAの常識」で考えてしまっていました。

4点目は首都圏空港発着の慢性的な不足です。日本の航空便は7割以上が羽田、成田を中心に動いていますが、その発着枠がまったく広がらない。いきおい需要が増えれば航空機の大型化を進め、そして需要が落ち込んだときにダウンサイジングできないという、先ほどの拡大主義につながっていきました。
首都圏の航空枠が増えない状況は、ビジネスチャンスが増えないという捉え方をするのが普通でしょう。しかし、当時の日本航空は安定的な競争環境を内心で歓迎していた節があります。

そして5点目、国策の航空会社として設立されたという歴史ゆえに、財務的な経営規律が欠如していました。

外科的手術を決断。赤字路線からの撤退と大型航空機の退役

一刻も早く事業構造を変えなければならないと思いました。環境変化を与件として利益を出せる事業構造にすること。それが最初に着手したことです。
ダウンサイズ、赤字路線からの撤退が必要でした。国際線は40%減、国内線は30%減、トータルで3分の2の事業規模へと縮小しました。
航空機も小型化し、最もコスト効率の高い削減方法として、機種数を削減する方法を選択しました。日本航空グループは、大型機のジャンボ747から150席サイズの737まで、複数の機種を保有していました。航空機を減らすなら、バラバラに機種を減らすより、1つの機種を丸ごと退役させてしまう方が管理費もカットでき、はるかにコスト効率が高い。シンプルな機種構成に再編しました。

これには運航乗務員の問題という副作用もありました。ある一時期に運航乗務員が運航できる機種は一機種に限られていて、1つの機種を丸ごと退役させると、その機種を運航していた乗務員の仕事がなくなるのです。その人たちへの反対給付が生じましたが、それでもトータルで見れば機種削減のコスト効果が強いので、チャレンジしました。
貨物専用機事業からも撤退しました。この事業は単価変動が激しく、着実に利益を生み出せるとは言いがたい。経営的に余裕があればビジネスチャンスを掴む魅力もありますが、当時の日本航空にとってはギャンブル性の強い事業でしたので、撤退を決断しました。

運航地点からも撤退させていただきました。便数を減らしても地点を残せば固定費が発生します。地点そのものからの撤退も、重要な選択肢だったのです。
ただし、この決断は地域経済に及ぼす影響が極めて大きいのです。ご迷惑をおかけした方々がいらっしゃる―。このことを心しながら、事業規模の縮小、路線撤退を決断し、進めさせていただきました。

そして、人員削減です。残る社員の雇用を守っていくためには、これも決断せざるをえませんでした。更生計画のターゲットは、09年度末の4万8,700名を10年度末3万2,600名へ削減するというものでした。
希望退職、特別退職の説明と説得には、現場の課長、部長が当たってくれました。彼らから、会社を去っていかれた方の声を聞いています。「私は辞めます。しかし、ぜひ日本航空を再生し切ってほしい」説得に当たった課長や部長もまた「けじめをつけたら私も辞めたい」という人が多数いました。本当に多くの方に多大なご苦労をおかけしながら、進めて参りました。

給与カットにも手をつけました。地上職、運航乗務職、客室乗務職、すべての職種で痛みを分かち合ってもらい、最大30%ダウンの提案を組合に受け入れてもらいました。この時には横並びの議論、ANAさんがどうだという議論は一切しませんでした。
「我々は潰れた会社です。それでも事業を継続させていただきました」と申し上げ、この事実を共有していくことで、理解を得られたと思います。

年金制度も改定しました。OBは30%ダウン、現役社員は50%のダウンです。これは他に例のない、前代未聞の数字だと思います。特に容易でなかったのは、すでに受給を開始されているOBの方々から同意を得ることでした。お電話を差し上げ、ご自宅にお伺いして説明するのですが、まず電話には出ていただけません。お伺いしても、お会いいただける方はごく少数でした。
ですが、日本航空が生き残っていくためには、やるしかないのです。何としても同意していただきたいと繰り返しお願いし、最終的には90%を超える方から同意をいただき、実現いたしました。

本質的にJALに欠けていたもの

稲盛名誉会長からは鋭く指摘を受けました。「経営者としての資質がない人があまりにも多過ぎる」。心にグサリとくる言葉でした。
確かにそうでした。「利益責任を負っているのは誰ですか?」という質問をしたとします。恐らく当時の日本航空は、誰も手を挙げないので、社長の私が手を挙げるという状態でした。私がこの部門の利益責任を負っています、と手を挙げられる人間がいない組織のつくり方だったのです。
そこには利益に対する責任感がありませんから、収入の最大化と経費の削減を図ろうとする発想も意志もありませんでした。

さらに稲盛名誉会長はフィロソフィ、哲学がないと指摘しました。実は、私たちはこの点について大変な勘違いをしていました。我々の会社は自由だ、自由な発想を持った人間の集まりだと考えていたのです。単に自発的に集まって何かを楽しむ集団ならば、それでよいと思います。しかし、ある目的を持っている組織がそれではいけません。
経営理念がなく、哲学もないという実態を、私たちは自由な発想を許される会社だと勘違いしていたのです。それでは結局まとまれない。経営の目的がはっきりしていないために、みんなが勝手な発想で動いていた。そういうことだったと今さらながら思います。

そして、経営システムが欠けていました。どうやって経営していくのかというシステムがなく、経営指標も会社の全容が見えない。明確な経営の目的がないので、目的を達成するために何か指標を見ていこうとする発想がなかったのです。
一体感は欠如し、目標が共有されない。そして、採算意識、危機感がないというのが我々の実態でした。私たちは何を目指していくのか?何に根差して物事を考えていくのか?どのような集団なのか?そうした哲学を確立すると同時に、その哲学を制度的に裏打ちする部門別採算制度、つまりアメーバ経営によって新しいJALをつくっていく―。これが私たちの内的な構造改革でした。

意識改革を支えたもの。リーダー教育とJALフィロソフィ

意識改革を支えたのはリーダー教育の実施とJALフィロソフィでした。
過去、日本航空で意識改革の取り組みがなかったのかというと、そうではありません。社内コミュニケーションの活性化に取り組みましたし、トヨタ改善方式も導入しました。しかし、それらは散発的で長続きしませんでした。

ある意味で安易だったのかもしれません。若い人たちにチャンスが与えられれば職場はどんどん活性化していくという発想でした。しかし、それだけでは発展はなく、全社に広がるうねりとはならなかった。日本航空は自由な組織でしたが、会社としてはまったくダメだったということです。
意識改革するのなら、まず変わらなければならないのはトップだったのです。リーダー教育が非常に重要なポイントとなりました。

リーダー教育は破綻後5ヵ月で立ち上げました。当時、更生計画の策定も含めて、やるべきことは恐ろしく多くありました。しかし、外科的手術だけでは絶対にダメで、内側から変わらなければならない、リーダー教育をいかに早くスタートできるかが生死を決めると思っていました。その結果、私自身も驚く早さで立ち上がっていきました。

京セラさんにも大変ご支援をいただきました。私たちには教育のノウハウはありませんでした。特に役員向けの教育は行ったことがなかったのですが、役員と主要部長級52人を対象とする合計17日間のカリキュラムを組むことができました。
はじめは本当に役員が全員参加してくれるのか心配でした。しかし、蓋を開けてみれば、みんな本当に真剣に取り組んでくれました。17日間のリーダー教育が動かなければ、今の日本航空はなかったと思っています。「自分も受けたい」と言って手を挙げる部長も非常に多くいました。この教育によって「変われるかもしれない」と手応えを感じました。
このリーダー教育は、その後も管理職を対象に展開し、2年半で3,000名を超えるリーダーが受講しています。
今後取り組みたいのは班長クラスの育成です。朝のブリーフィングで5、6名の社員に指示を出す人たちがキーだと思っています。彼らが自分の部下に何を言うのか、これが組織全体に大きなインパクトを与えていきます。ぜひ、このクラスにも教育を広めていきたいと思っています。
このリーダー教育以外にも、全社員に対して年4回JALフィロソフィ教育を展開しています。さまざまな職種の社員が集まって研修を受ける。自己紹介から始めて、自分はどういう仕事をしているかを伝え合ってもらいます。

日本航空には、さまざまな部門と職種があります。地上職では機内食をつくっている部門や荷物を運んでいる部門、また整備部門などがあります。機内では運航乗務員と客室乗務員がいます。この人たちは、それぞれが専門分野に特化しているために、なかなか相手の領域に入らず、交わらないという歴史がありました。その歴史を変えることを目指しています。
はじめは、それぞれの職種特有の単語を乱発していて、ほとんど話が理解できなかったこともあったそうです。そこからのスタートでしたが、今はお互いに分かり合えるようになってきています。

課題は部分最適であり、一体感の欠如でした。専門性の高い職種の集まりゆえに、自分の立場を正当化するためにマニュアルに頼る。「マニュアルに書いてありますから」という発言が横行し、そこにお客様への意識はありませんでした。自分を守る発想ありきで、「お客様のために」という発想ではなかったのです。これが改まっていきました。

リーダー教育のかたわら、同時並行でJALフィロソフィをつくり、浸透していく取り組みを進めました。これもはじめ現場から聞こえてきたのは「会社は、また何か新しいことをやり出そうとしている、勘弁してほしい」という声でした。これを打破して現場が納得できるものを創り上げないと何の意味もありません。私が指名させていただいた検討メンバーは、本当に涙ぐましい努力を払ってくれたと思います。40項目にわたる手帳を5ヵ月かけてつくりましたが、彼らには土日はまったくありませんでした。
これまでとは違う方法でした。従来は官僚的にテクノクラートがまとめて「はい、やりなさい」とやってきました。その作成方法も変えて、現場へのヒアリングも行い、ドラフト段階から現場社員の意見を反映しました。
手帳様式にしたことへも反対意見がありました。倒産したのにそんなものにお金を使うのかと。これも強行突破しました。
現場の本部長も工夫してくれました。単に配布して済ますのではなく、本部長が自分の思いを込めて、一人ひとりに渡すというセレモニーがなされたのです。
「これをあなたと共有したい」という言葉が交わされるのかどうかでまったく違うのです。会社の本気度が伝わったことが非常に大きかったと思います。
こうした取り組みの結果、社員一人ひとりの意識は確実に変わっていきました。
最もコスト意識から遠いところにいた運航乗務員も変わりました。自分が運航する飛行機の燃油代を知った瞬間から、無駄な燃油を使用しないようセーブし出したのです。
機内アナウンスも変わりました。いたって定型的なものから、一人ひとりが考えて伝えるメッセージへと変化しています。精神面でずいぶん変わってきたと手応えを感じています。
私が言うのもおかしいですが、日本航空は変わったと思います。過去、当社をご利用いただいて、「何だ、このサービスは」と思われて、他の航空会社に乗り換えられた方もいらっしゃるかもしれません。しかし、ぜひ一度チャンスをいただければと思います。

部門別採算制度

そして部門別採算制度についてです。
かつての私たちがどのような集団だったかと振り返って反省しますと、責任を取らない評論家でした。当事者意識、採算意識が欠如していました。
収支に責任を負うのではなく、どれだけ多くの予算を取ってくるのかに責任を負っていました。予算は獲得してくるもので、会社がどういう状況なのかはお構いなしに、いったん獲得した予算は使い切ろうとする。

「予算」と表現した瞬間にそういう思考になってしまうのは、ある意味いたしかたないことなのかもしれません。それゆえか、稲盛名誉会長からは「予算という言葉は使うな」と指導を受けました。
また、稲盛名誉会長は「言葉は言霊」とも言われます。自分の発している言葉がとても大切で、言葉自体に自分の考えが左右されるという意味です。「予算」と言った瞬間に、それは得たものであり、使って当たり前のものになってしまう。この発想を大きく変えていくことが非常に重要でした。

部門別採算制度で一番大切だったことは、組織をつくり直し、どの部門の誰が、何の収支に責任を負うのかをはっきりさせたことです。
単に数字が見える状況にしても、それだけでは何の意味もありません。組織の役割と責任を定め、収支責任を負って数字を監督する組織と人を一対一にしていくことが必要だったのです。
これからは、数字を監督する人だけではなく、アメーバ組織を構成する一人ひとりが目標を立て、達成するための方策を追求していくことが重要だと、強く実感しています。

この2年間、日本航空の役員・社員一同、本当に無我夢中で走って参りました。この間の経営再建に関しては、一定の成果はあったのではないかと思っております。特に、自分たちがどういう集団で、どうなろうとしているという、共通の目的を持ち得たことは大きかったと感じます。
しかし一方で、まだまだこれからだとも思っています。人間、「2年間、とにかく死に物狂いで働け」と言われれば、できなくはないと思うのです。ただ、それは肩に力を入れて「必ず再生させる」と意気込んでいる状態です。これを平時でも実行し、民間企業としてしっかりと利益が上げられるようになるには、まだまだ力不足だと感じております。これからも努力して参りますので、引き続き皆様にはご支援をいただければと考えております。

  • アメーバ経営倶楽部機関誌「Amoeba management Report 」Vol.6より転載

2013年12月05日

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